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札幌地方裁判所 昭和55年(ワ)20号 判決

原告

福雅美

右法定代理人親権者父

福政勝

右法定代理人親権者母

福民子

右訴訟代理人

冨岡公治

被告

稲場昭徳

右訴訟代理人

黒木俊郎

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

〔請求の趣旨〕

一  被告は、原告に対し、金二九九一万二六九四円及びこれに対する昭和五五年一月一二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  仮執行の宣言

〔請求の趣旨に対する答弁〕

主文と同旨

第二  当事者の主張

〔請求原因〕

一  本件損害の発生

1 原告は、昭和四八年一二月一六日に生れた女児であり、被告は、肩書地で稲場耳鼻咽喉科医院を開業する医師である。

原告は、昭和五一年九月八日、右耳に中耳炎を患つたので、父福政勝(以下「政勝」という。)及び母福民子(以下「民子」という。)に連れられて被告の医院に赴き、被告の診察を受け、原告と被告との間に、原告の右耳を診察治療することを目的とする診療契約が締結された。

2 被告は、原告の疾病を右急性化膿性中耳炎と診断し、通院させて診察治療していたが、原告は、同月一六日ころ、緑膿菌に起因する悪性外耳炎に罹患し、次第に外耳周囲が腫脹して顔面神経の麻痺が生じ、三八度の発熱、下痢、食欲不振などの症状を呈するに至つた。

3 原告は、同月一八日、被告から札幌市豊平区美園四条五丁目所在の福田耳鼻咽喉科医院(以下「福田医院」という。)に転医するように言われたので、政勝及び民子に連れられて同医院に赴いたが、福田医院は、被告から連絡を受けていないとの理由で原告を診察することを断つた。そこで、原告は、政勝及び民子に連れられて再び被告の医院にもどり、同日及び翌一九日にわたつて仮入院した。この間、原告の症状は、ますます悪化した。

4 原告は、同月二〇日、被告から再び転医するように言われたので、市立札幌病院耳鼻咽喉科(以下「市立札幌病院」という。)に入院したが、同病院における検査の結果、緑膿菌に感染していることが判明したので、約九〇日間にわたつて強力な化学療法及び抗生物質の大量投与などの治療を受け、ようやく一命を取り留めた。しかし、右耳の聴力を完全に失い、顔面が著しく変形して醜状を呈し、両眼の視力が弱くなり、常に涙が出て長く目を使えないといつた後遺障害を残した。

二  被告の責任

被告は、次のとおり医師としての業務上の注意義務に違反した。

1 被告は、被告の医院施設に適当な細菌感染防止処置を施さなかつたため、被告の医院内で原告を緑膿菌に感染させた。

2(一) グラム陰性桿菌感染症は、近年増加し始め、臨床各科でも注目され出したが、特に、その一菌種である緑膿菌は次第に感染域を広げ、大病院においても院内感染について黄色ブドウ球菌に代わって首位を占めるまでに至つた。緑膿菌には、ピオシアニンという深緑色の色素を産生するものとこれを産生しないものがあり、近年特に無色株の検出率が高くなつているが、この無色株の緑膿菌についても、緑膿菌専用の分離培地やOF試験(ブドウ糖の分解形式を調べる試験)などの性状試験を実施して、その分離同定を行うことが可能になつている。そして、緑膿菌に起因する悪性外耳炎は、一般的な所見として激しい耳痛が続き、耳漏が見られ、外耳道に肉芽が形成され、深い瘻孔が軟骨部、骨部、骨部外耳道境界部に生じ、発赤、浮腫、壊死が外耳道を中心に広がり、耳漏中には純培養のように緑膿菌が検出されたりする。

(二) ところで、被告は、昭和五一年九月一〇日と一六日の二回にわたつて臨床病理センターに一般細菌検査の報告を求めているが、一〇日に求めた検査報告によれば、中耳炎の一般的な起炎菌とされるブドウ球菌が検出されず、これに代わつて培養所見としてグラム陰性桿菌の存在が認められ、また、一六日に求めた検査報告によれば、培養所見としてグラム陰性桿菌の存在が認められたほか、染色鏡検査でも、単染色及びグラム染色とも桿菌の存在が認められた。しかも、原告は、診療当初から耳漏が多く、同月一四日には外耳が著しく腫脹し、同月一七日ころには急性乳突炎の症状を呈し、なおかつ、通常の抗生物質や治療に反応しない遷延性外耳道炎、ポリープ様肉芽の形成、軟骨の壊死、顔面神経麻痺、開口不全、激しい疼痛、耳周囲の浮腫、腫脹など緑膿菌に起因する悪性外耳炎に特徴的な症状を呈していた。

(三) 一般開業医を含めて臨床に関与する医師は、随時細菌の同定検査を実施して緑膿菌の感染に十分に留意すべきであるのみならず、患者の症状及び細菌検査の結果を十分に吟味して緑膿菌に感染していることを早期に発見して効果的な治療を施す義務がある。それなのに、被告は、細菌の同定検査を実施しないばかりか、前記のような原告の症状及び検査報告によれば、容易に原告が緑膿菌に感染したことに気付いたはずであるのに、それを看過し、漫然と一般の中耳炎に対するのと同様の治療を続け、緑膿菌の感染に対して効果的な治療を施さなかつた。

3 被告は、昭和五一年九月一八日ころ、原告が緑膿菌に感染していることに気付いたのに、一般開業医も常備するゲンタマイシンやスルベニシリンなどの抗生物質を大量に投与するなどの効果的な治療を施さなかつたばかりか、転医することを勧めて治療義務を放棄した。

三  原告の損害

1 逸失利益

原告の前記後遺障害は、聴力について後遺障害別等級表第九級九号に、外貌について同表第七級一二号に該当するところ、これらを併合すると同表第六級に該当することになり、労働能力喪失率は六七パーセントである。また、原告は、本訴提起当時、満六歳の女児であつたから、満一八歳から四九年間は就労が可能である。ところで、昭和五二年度賃金センサス第一巻第一表によれば、女子労働者の平均給与月額は一〇万一九〇〇円、年間賞与額は三〇万〇一〇〇円であるから、年間平均給与額は一五二万二九〇〇円になり、右の期間に係る新ホフマン係数は24.416である。

以上によつて原告の逸失利益を算定すると、次のとおり二四九一万二六九四円になる、

2 後遺障害に対する慰謝料

原告の後遺障害に対する慰謝料は四〇〇万円が相当である。

3 入・通院慰謝料

原告の入・通院慰謝料は一〇〇万円が相当である。

四  よつて、原告は、被告に対し、診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償として、金二九九一万二六九四円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和五五年一月一二日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

〔請求原因に対する認否〕〈省略〉

〔被告の主張〕

一  本件診療の経過

1 昭和五一年九月八日、原告は、二、三日前から右耳の耳漏と微熱があつたことを主訴として被告の医院を訪れた。被告は、原告を診察したところ、右鼓膜穿孔、外耳道発赤、粘液性膿性鼻漏、著明な咽頭発赤、扁桃腺肥大を認め、その所見から原告の疾病を右急性化膿性中耳炎と診断し、耳処置を行い、サワシリン細粒を一日分3.5グラムで三日分投与した。

2 同月九日、耳漏を認め、耳処置を行つた。

3 同月一〇日、耳漏過多を認め、耳処置を行い、薬剤感受性テストを実施した。

4 同月一一日及び翌一二日、耳漏多量のため来院するように指示したが、原告は来院しなかつた。

5 同月一三日、耳漏過多、外耳の腫脹増加、外耳のせつ様症状、疼痛、発熱を認め、耳処置を行い、塩酸ドキシサイクリン(リオマイシン)シロップを一日分一〇ミリリットルで三日分及び鎮痛剤であるシボンを0.2グラム投与した。なお、同月一〇日に実施した薬剤感受性テストの結果、その培養所見としてグラム陰性桿菌の存在が認められた。

6 同月一四日、粘液性膿性耳漏過多、外耳及び右耳後部の腫脹増大を認め、耳処置を行い、耳帯湿布をした。

7 同月一五日、疼痛を認め、耳処置を行い、シボンを0.2グラム投与した。

8 同月一六日、耳漏を認め、外耳及び外耳周囲の腫脹は減退せず、耳処置を行い、二回目の薬剤感受性テストを実施した。

9 同月一七日、外耳及び耳周囲の腫脹増大と硬結、耳下腺部の腫脹、軽度の右顔面神経麻痺を認めたほか、一般症状として機嫌が悪く、食欲不振、三回の黄色下痢便を認め、その所見から急性乳突炎を疑つて転医を教示する一方、耳処置を行い、セファメジンを0.25グラム及びゲンタシンを五ミリグラム筋肉内注射(以下「筋注」という。)し、ブドウ糖及びビタミンCを静脈内注射(以下「静注」という。)し、プリンペランシロップを一日分八ミリリットルで三日分投与した。

10 同月一八日、耳周囲の甚だしい腫脹と外耳のびらん様、湿疹様症状を所見し、耳漏減少、食欲不振、三六度の体温を認めたので、耳処置及び患部のレントゲン検査を行い、ブドウ糖及びビタミンCを静注し、セファメジンを0.25グラム及びゲンタシンを五ミリグラム筋注した。なお、同月一六日に実施した薬剤感受性テストの結果、その培養所見としてグラム陰性桿菌の存在が認められた。福田医院に転医できなかつたので、被告の医院に仮入院措置を執つた。その後、セファメジンを0.5グラム及びゲンタシンを五ミリグラム筋注し、ケフレックス細粒を一日分三グラムで三日分投与した。夜はブドウ糖、ビタミンC及びビタミンB2を静注し、ネオマイゾンを0.5グラム筋注した。

11 同月一九日、外耳の腫脹、軽度の麻痺、軽度の血性便、疼痛を認めたものの、自発的食欲があり、午前中は耳処置を行うとともに、ブドウ糖、ビタミンC及びビタミンB2を皮下注射し、セファメジンを0.5グラム及びゲンタシンを五ミリグラム筋注し、午後はブドウ糖、トランサミン及びビタミンCを静注し、ガランターゼを一日分一グラム投与し、夜はセファメジンを0.5グラム及びゲンタシンを五ミリグラム筋注し、シボンを0.2グラム投与した。

12 同月二〇日の朝、耳処置を行い、セファメジンを0.5グラム筋注し、市立札幌病院に転医させた。

二  原告は、市立札幌病院における検査の結果、緑膿菌が同定された昭和五一年九月二二日には緑膿菌に感染していたことが明らかであるが、それより以前に感染したのか、特に被告の診療期間中に感染したのかどうかは明らかでない。

三  緑膿菌に起因する感性外耳炎の症例は、高齢の糖尿病患者に見られるのが通常であり、小児における症例は、被告の診療当時、世界でわずか三例しか報告されていなかつたし、右症例に関する邦語の文献は皆無であつた。しかも、原告は深緑色の色素ピオシアニンを含まない無色株の緑膿菌に感染したのであり、当該緑膿菌は特殊かつ強力な菌であつて、その膿の色が緑色を呈することはない。更に、被告が実施した二回目の薬剤感受性テストの結果によれば、緑膿菌に効果のあるコリスチンよりも効果のないストレプトマイシン及びクロラムフェニコールに感受性の反応が出ていた。以上のことを考え合わせると、被告が原告の診察過程において原告が緑膿菌に感染していることを発見するのは不可能であつたというべきであり、一般開業医にとつては、細菌の同定を行うことよりも薬剤の感受性を調査することの方が治療上重要であり、緑色の膿が現出するなど緑膿菌感染の徴候が見られない限り、細菌の同定検査まで行う必要はないということができる。なお、市立札幌病院は、原告の症状が被告のもとで様々な抗生物質を投与したにもかかわらず悪化したという経過を踏まえていたからこそ、早期に緑膿菌の感染を発見したのである。

四  被告は、前記第一項で述べたとおり、診療当初、原告の症状から通常の細菌感染と判断したうえ、ペニシリン系薬剤で広範囲の細菌に効果のある抗生物質のサワシリンを投与し、その後、薬剤感受性テストの結果によつてテトラサイクリン系の抗生物質でグラム陰性桿菌に効果のある塩酸ドキシサイクリンを投与し、更に、症状の悪化に応じて、セファロスポリン系の抗生物質で緑膿菌以外のほとんどのグラム陽性又は陰性の球菌又は桿菌に効果があり、しかもペニシリン耐性菌にも有効であるセファメジンやアミノ糖系の抗生物質で緑膿菌などのグラム陰性桿菌に効果のあるゲンタシン(ゲンタマイシンの硫酸塩)を筋注するなどした。被告の右のような治療行為は、その診療の経過に鑑みて極めて適切であつたというべきである。なお、市立札幌病院において原告に対し、難聴などの第八脳神経障害や肝又は腎障害などの副作用があり、その大量投与は危険であると言われる抗生物質ゲンタマイシンを大量に投与したのは、原告の症状が極めて悪化して、その生命さえも危険な状態であつたので、副作用よりも生命を重視したものであり、副作用の発現に対拠できる人的物的設備を備える大病院において始めてなしえたことである。被告が原告に対して診療を施していた当時、原告の症状は未だ右のような危険な状態には至つていなかつたし、開業医である被告に右のような人的物的設備を備えることを要求ずることはできない。

五  一般開業医が自らの力量を越えるような重篤な疾患又は奇妙な症例に遭遇した場合、より高度の治療をなしうるだけの設備を備える医療機関に患者を転医させるのは当然であるから、被告が原告に対して転医を教示したのは適切な処置であつたといえる。また、原告の父母である政勝及び民子は、被告の転医指示を承諾したのであるから、その時点で原告及び被告間の診療契約は合意解約されている。

〔被告の主張に対する認否〕〈以下、省略〉

理由

一請求原因第一項1の事実は、当事者間に争いがない。

二本件診療の経過について

請求の原因第一項2のうち、原告が昭和五一年九月一六日ころに緑膿菌に起因する悪性外耳炎に罹患したことを除くその余の事実、同項3のうち、福田医院が被告から連絡を受けていないとの理由で原告を診察することを断つたこと及び原告の症状がますます悪化したことを除くその余の事実、同項4のうち、原告が同月二〇日に被告から再び転医するように言われたので市立札幌病院に入院したこと及び同病院における検査の結果緑膿菌に感染していることが判明したこと、被告の主張第一項1及び2の事実、同項3のうち、耳処置を行つたことを除くその余の事実、同項4のうち、耳漏多量のため来院するように指示したことを除くその余の事実、同項5のうち、治療行為に関する部分を除くその余の事実、同項6及び7の事実、同項8のうち、耳処置を行つたことを除くその余の事実、同項9ないし12のうち、いずれも治療行為に関する部分を除くその余の事実は、当事者間に争いがない。

右当事者間に争いのない事実に、〈証拠〉を考え合わせると、次の事実を認めることができ〈る。〉

1  原告は、昭和五一年八月中旬ころから咳嗽が続き、小児科医より風邪として抗生物質を投与されていたところ、同年九月五日ころから右耳に耳漏が出始め、同月八日、政勝及び民子に連れられて被告の医院を訪れ、右耳の耳漏及び微熱を訴えた。被告は、原告を診察したところ、右鼓膜穿孔、外耳道発赤、粘液性膿性鼻漏、著明な咽頭発赤及び扁桃腺肥大を認めたので、原告の疾病を右急性化膿性中耳炎と診断し、耳処置及びクロマイ点耳(耳の膿をふき取り、クロマイ液を注入してガーゼを入れる処置)を行い、ペニシリン系薬剤の一つで急性化膿性中耳炎の一般的な起炎菌であるブドウ球菌など広範囲の細菌に効果のあるサワシリン細粒を一日分3.5グラムで三日分(小児に対する一日の用量は、体重一キログラムについて二〇ないし四〇ミリグラム)投与した。

2  被告は、続いて以下のとおり原告の症状を認め、各治療を行つた。

(一)  同月九日、耳漏を認め、耳処置を行つた。

(二)  同月一〇日、耳漏過多を認め、耳処置及びクロマイ点耳を行うとともに、薬剤感受性テストを実施するために札幌市内の臨床病理センターに一般細菌検査の報告を求めた。なお、同月一一日及び翌一二日、原告は来院しなかった。

(三)  同月一三日、耳漏過多、外耳の腫脹及びせつ様症状、疼痛、発熱を認め、耳処置及びクロマイ点耳を行つた。なお、同月一〇日に実施した薬剤感受性テストの結果、その培養所見としてグラム陰性桿菌の存在が中程度に認められた上、抗生物質の感受性について、ストレプトマイシン、テトラサイクリン、クロラムフェニコール、スルフィソキサゾールに若干の反応があつたので、抗生物質を変えることとし、ブドウ球菌、レンサ球菌、大腸菌などに効果があり、テトラサイクリン系の抗生物質である塩酸ドキシサイクリンシロップを一日分一〇ミリリットルで三日分(一日の用量は、体重一〇キログラムの小児で八ミリリットル)投与するとともに、鎮痛剤であるシボンを0.2グラム投与した。

(四)  同月一四日、粘液性膿性耳漏過多、外耳及び右耳後部の腫脹増大を認め、耳処置を行い、耳帯湿布や亜鉛華硼酸軟膏塗布をした。

(五)  同月一五日、疼痛を認め、耳処置を行い、シボンを0.2グラム投与した。

(六)  同月一六日、耳漏、外耳周囲の腫脹を認め、耳処置を行い、塩酸ドキシサイクリンシロップを一日分一〇ミリリットルで三日分及びシボンを0.4グラム投与した。なお、二回目の薬剤感受性テストを実施することとし、前記臨床病理センターに一般細菌検査の報告を求めた。

(七)  同月一七日、外耳ないし耳周囲の腫脹増大と硬結、耳下腺部の腫脹、軽度の右顔面神経麻痺のほか、一般症状として不機嫌な様子、食欲不振、三回の黄色下痢便を認めたところ、急性中耳炎が広範囲に波及すると乳突部などが腫脹して急性乳突炎になることもあるので、急性乳突炎を疑い、合併症を起こしていると判断して耳処置を行い、セファロスポリン系の抗生物質で緑膿菌以外の広範囲のグラム陽性菌、陰性菌に効果があり、しかもペニシリン耐性菌にも効果のあるセファメジンを0.25グラム(小児に対する一日の用量は、体重一キログラムについて二〇ないし五〇ミリグラムであるが、特に重篤な症状の場合は、一〇〇ミリグラムまで投与することが可能であり、これを一日二、三回分割して投与する。)及びアミノ糖系の抗生物質で緑膿菌などのグラム陰性桿菌に効果があり、ゲンタマイシンの硫酸塩であるゲンタシンを五ミリグラム(小児に対する一回の用量は、体重一キログラムについて0.4ないし0.8ミリグラムであり、一日に二、三回投与する。)筋注し、ブドウ糖及びビタミンCを静注し、プリンペランシロップを一日分八ミリリットルで三日分投与した。

(八)  同月一八日、耳周囲の甚だしい腫脹、外耳にびらん又は湿疹様相を認めたほか、鼓膜の腫脹、耳漏減少、食欲不振、三六度の体温(一時は三七度近くまで上昇)、三回の黄色便を認め、耳処置及びクロマイ点耳を行い、患部のレントゲン検査を行つたところ、右耳に陰影が強く見られた。ブドウ糖及びビタミンCを静注し、セファメジンを0.25グラム及びゲンタシンを五ミリグラム筋注した。なお、同月一六日に実施した薬剤感受性テストの結果、その培養所見としてグラム陰性桿菌の存在が中程度に認められ、抗生物質の感受性について、ストレプトマイシン、クロラムフェニコールに中程度の反応があり、テトラサイクリン、コリスチン、スルフィソキサゾールに若干の反応があつた。その後も右と同様の症状が続いたので、耳処置及びパニマイ点耳(パニマイシンを耳の中に注入する処置)を行い、亜鉛華硼酸軟膏塗布をし、セファメジンを0.5グラム及びゲンタシンを五ミリグラム筋注したほか、セファロスポリン系の抗生物質で緑膿菌を除き大腸菌などのグラム陰性桿菌などに効果のあるケフレックス細粒を一日分三グラムで三日分投与した。更に、夜は耳処置を行い、ブドウ糖、ビタミンC及びビタミンB2を静注し、ネオンマイゾンを0.5グラム筋注し、シボンを0.2グラム投与した。

(九)  同月一九日、外耳の腫脹、軽度の麻痺、軽度の血性便、疼痛を認めたが、一方、自発的食欲が見られた。午前中は耳処置を行うとともに、ブドウ糖、ビタミンC及びビタミンB2を皮下注射し、セファメジンを0.5グラム及びゲンタシンを五ミリグラム筋注し、午後になつて、ブドウ糖、トランサミン及びビタミンCを静注し、ガランターゼを一日分一グラム投与し、夜はセファメジンを0.5グラム及びゲンタシンを五ミリグラム筋注し、シポンを0.2グラム投与した。

(一〇)  同月二〇日の朝、耳処置を行い、セファメジンを0.5グラム筋注した。

(一一)  なお、ゲンタシンは、その使用によつて眩量、耳鳴、難聴などの第八脳神経障害や肝又は腎障害などの副作用を伴い、その小児に対する一回の用量は、前記のとおり体重一キログラムについて0.4ないし0.8ミリグラムであり、一日に二、三回投与するものであるが、被告は、原告の体重を一一キログラムと推定して、その一回の使用量を五ミリグラム、一日の使用回数を二回にとどめた。

3  ところで、被告は、同月一七日、前記のとおりの所見から右急性乳突炎を疑い、更に将来種々の合併症を起こす可能性も考えられ、しかも被告の医院の設備では治療に困難を来すおそれがあつたので、原告に対して転医を教示することとし、翌一八日、札幌市豊平区所在の福田医院を政勝及び民子に紹介し、その旨の紹介状を渡した。しかし、政勝らは、同日、福田医院に電話を掛けて問い合わせただけで直接同医院に赴かなかつたため、福田医院は、被告から連絡を受けていないこと及び設備が十分でないことを理由に、原告を診察することを断つた。そこで、原告は、政勝及び民子に連れられて再び被告の医院にもどつたが、被告は、なおも他に転医先を求めたものの連絡が取れなかつたため、同日、原告に対して被告の医院に仮入院措置を執つた。そして、同月二〇日、被告は再び転医指示をし、原告は市立札幌病院に転医した。

4  被告は、以上の診察過程において、緑膿菌の感染を全く疑わないで治療を継続していた。また、細菌学的検査を実施して細菌を同定することについては、開業医にとつては細菌を同定することよりも薬剤の感受性を調査することの方が治療上重要であるのみならず、細菌学的検査は費用がかさみ、その上、前記のとおり同月一七日には既に転医させるのが適切であると考えていたので、右検査を実施しなかつた。

三市立札幌病院に入院後の経過について

〈証拠〉によれば、次の事実を認めることができ〈る。〉

原告は、前記のとおり昭和五一年九月二〇日に市立札幌病院において受診し、直ちに入院したが、その当時の症状としては、発熱及び局所痛に加えて、開口時の疼痛のため水分の外は摂取することもできず、全身衰弱が強く認められたほか、既にポリープ様肉芽を形成し、軟骨は壊死していた。そこで、市立札幌病院は、原告の疾病を右乳様突起炎、耳部蜂高織炎、脳膜炎、右顔面神経麻痺と診断し、治療を開始することとしたが、同月二二日、同病院において細菌学的検査を実施した結果、原告の膿から緑膿菌が純培養のように多数検出され、また、薬剤感受性テストの結果、抗生物質のゲンタマイシン、スルベニシリン、ドキシサイクリン、ストレプトマイシン、クロロマイセチンに感受性の反応があつたのを踏まえ、右抗生物質を大量に投与すれば難聴などの副作用が発現することが予想されたものの、原告の症状が重篤で生命が危険にさらされているほどであつたので、ゲンタマイシンを二〇ミリグラムずつ一日二回筋注するとともに、スルベニシリンを二〇〇〇ミリグラムずつ一日二回静注するなど通常の用量の三割以上多く投与して、その大量療法に踏み切った。その結果、同年一〇月一日には耳下腺部の腫脹が消失し始め、疼痛も減弱し、食欲の回復も認められるに至つたが、同月五日まで右療法を継続し、その後はゲンタマイシンのみの注入を継続するなどした結果、同月一五日には耳漏の培養で菌が陰性と認められたが、なおゲンタマイシンの局所療法は続けられた。そして、原告は、昭和五二年二月三日に市立札幌病院を退院することができたが、右耳の聴力を完全に失い、軽度の顔面神経麻痺を残し、また、顔面に著しい醜状を残し、口腔がわん曲し、片方の目は完全に閉じなくなつた。

四緑膿菌に起因する悪性外耳炎について

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

緑膿菌は、グラム陰性桿菌の一菌種であり、ビオシアニンという緑膿菌特有の深緑色の色素を産生するのが特徴であるが、一方、ビオシアニンを産生せず、他の色素を産生するものや無色株のものもあり、近年特に無色株の検出率が高くなつている。緑膿菌を同定するための検索法としては、緑膿菌専用の分離培地やOF試験などの性状試験がある。ところで、グラム陰性桿菌感染症の一菌種である緑膿菌は、次第に感染域を広げ、大病院においても院内感染について黄色ブドウ球菌に代わって首位を占めるまでになり、近年その増加が臨床各科で注目され始めるに至つた。緑膿菌感染症の中でも緑膿菌を起炎菌とする悪性外耳炎は、外耳を中心とする耳介周辺や側頭骨、頭蓋底骨の激しい進行性壊死性炎症であつて、一般的には、耳漏とともに、外耳道に肉芽が認められ、深い瘻孔が軟骨部や骨部外耳道境界部に生じ、外耳道を中心に発赤、浮腫、壊死が次第に各方向に広がつていくという経過をたどり、その外に中耳炎に原発して骨組織に広がる場合もあるが、いずれの場合にも耳漏中に純培養のように多数の緑膿菌が検出され、重篤になると顔面神経麻痺などの脳神経麻痺などを起こすことがある。そして、その特徴は、高齢者又は幼小児や糖尿病などの基礎疾患を有する場合に発生しやすく、通常の抗生物質や治療に反応しない遷延性外耳炎、激しい疼痛、緑色を帯びた膿汁、周囲の紅斑、浮腫、腫脹が発現し、ポリープ様肉芽の形成、軟骨の壊死、特に骨部外耳道との境界の深い創腔、顔面神経その他の脳神経麻痺、開口不全、耳下線部の腫脹などが認められる。なお、緑膿菌に起因する悪性外耳炎は、一九五九年(昭和三四年)に初めて外国の学者によつて報告され、その平均死亡率は約五〇パーセントにも及ぶ。

五被告の過失の存否について

1  院内感染について

原告は、被告がその医院施設に適切な細菌感染防止処置を施さなかつたために被告の医院内で原告を緑膿菌に感染させたと主張する。

そこで、原告の右主張について判断するに、原告は、前認定のとおり、昭和五一年九月二二日に市立札幌病院において細菌学的検査を実施した結果、緑膿菌に感染していることが判明したのであるから、遅くとも右の時点で緑膿菌に感染していたことは明らかであるが、被告の診療当時から、既に激しい疼痛、外耳周囲の腫脹、耳下腺部の腫脹、顔面神経麻痺など緑膿菌を起炎菌とする悪性外耳炎の特徴が発現し、しかも、被告が様々な抗生物質を投与しても原告の症状は一向に好転しなかつたことを考えると、原告は、被告の診療当時、既に緑膿菌に感染していたものと推認することができる。一方、〈証拠〉によれば、緑膿菌は、近年特に感染域を広げ、院内感染については大病院においてさえ黄色ブドウ球菌に代わつて首位を占めるまでになつているものの、他の細菌と比べても分布域が広く、至る所に存在する細菌であることが認められるのみならず、原告は風邪の治療のために抗生物質の投与を受けていたが、このような場合、菌交代現象を起こして緑膿菌を繁殖させる結果を起こすことがあり、また、小児は感染防禦機構が未熟であり、種々の全身疾患による抵抗力の減退も緑膿菌感染の誘因になることが認められ、右認定事実に、原告が昭和五一年九月一八日から同月二〇日の朝にかけて被告の医院に入院していたにすぎず、それより以前は通院していたことを考え合わせると、原告が緑膿菌に感染した場所は被告の医院以外の場所である可能性も高く、被告の医院内で感染したと速断することはできない。

2 緑膿菌感染の早期発見義務について

原告は、被告において原告が緑膿菌に感染していることを早期に発見して効果的な治療を施す義務があるところ、被告は、細菌の同定検査を実施しなかつたことなどのために原告が緑膿菌に感染したことを看過し、緑膿菌の感染に対して効果的な治療を施さなかつた旨主張する。

なるほど、原告は、被告の診療当時、既に緑膿菌に感染していたものと推認することができ、しかも、被告は、診療当初、原告の疾病を急性化膿性中耳炎と診断し、診療期間中、緑膿菌の感染を全く疑わないで治療を継続していたことは前認定のとおりである。

そこで、原告の右主張について判断するに、〈証拠〉を考え合わせると、(一) 緑膿菌に起因する悪性外耳炎は、被告の診療当時、それに関する邦語の文献は皆無であつて、とりわけ一般開業医にとつてはおよそ未知の疾病ともいいうるほどにそれに関する知識は未だ普及するに至らず、少数の有識者の間でも高齢で糖尿病などの基礎疾患を有する者に主に発病すると考えられていたのであり、現に被告の診療以前において、小児の右悪性外耳炎に関する症例は世界で三例しか報告されておらず、被告の診療以後においても、日本における右悪性外耳炎に関する報告は、本件症例の外に高齢者の症例が散見されるだけであること、(二) 緑膿菌は、被告が診断した化膿性中耳炎の起因菌の中でその占める割合は低いとはいえないものの、ブドウ球菌と比べればはるかに低率であり、特に乳幼児の中耳炎の起因菌としては黄色ブドウ球菌、溶レン菌、肺炎双球菌などがむしろ一般的と考えられていること、(三) 原告は、小児であり、糖尿病の存在は全くうかがえなかつた上、原告には緑膿菌の存在を直ちに疑わせるような緑膿菌色の膿は出ていなかつたのであり、しかも被告が実施した薬剤感受性テストの結果によれば、いずれも培養所見としてグラム陰性桿菌の存在が中程度に認められているが、グラム陰性桿菌には、緑膿菌のほか、大腸菌、変形菌、クレブシェラなど多数の細菌が含まれるし、特に二回目の薬剤感受性テストにおける抗生物質の感受性について、緑膿菌に効果のあるコリスチンよりも緑膿菌には大して効果のないクロラムフェニコールなどに強い感受性の反応が現れていたこと、以上の事実を認めることができる。

ところで、一般に医師の診療行為における注意義務を判断する場合には、診療行為当時の医学界において通常認められている医学常識を基準とし、予見不可能と思われる疾病については、たとえ当該医師が右疾病を発見することができなかつたとしても、当該医師に対して診療契約上の義務違反ないし債務不履行責任を問うことはできないというべきであるところ、前認定事実のとおりの緑膿菌に係る被告の診療当時の医療水準のもとで、しかも原告には緑膿菌の存在を直ちに疑わせるような徴候は見られない上、薬剤感受性テストの前認定のとおりの結果をもとにすれば、一般開業医である被告にとつて原告が緑膿菌に感染していることを発見することは不可能であつたといわざるを得ない。

なお、前認定のとおり、被告は、診療期間中、細菌を同定するための細菌学的検査を実施しなかつたのであり、仮に右検査を実施していれば、原告の膿から或いは緑膿菌が検出されたのではないかとも考えられる。しかし、〈証拠〉によれば、一般開業医にとつては、患者がどのような細菌に感染しているのかを知ることよりも、どのような薬剤が治療に効果的であるかを認識し、早期に患者を治癒させることに努めるのが一般であることが認められる上、原告の症状、検査結果などの前認定の事情のもとにおいては、一般開業医である被告が細菌学的検査を実施しなかつたからといつて被告を責めることはできない。

3 治療義務の放棄について

原告は、被告において原告が緑膿菌に感染していることに気付いたのに転医することを勧めて治療義務を放棄した旨主張する。

しかし、前認定のとおり、被告は、診療期間中、緑膿菌の感染を全く疑わなかつたのであるから、原告の右主張は前提を欠くだけでなく、前認定のとおり、被告は、原告の症状が次第に重篤となり、被告の医院の設備では治療に困難を来すおそれがあつたので転医を指示したのであるが、被告のような開業医としては、このような場合、設備の整つた病院に患者を転院させてその治療を行わせようとするのは当然といえるから、被告の転医指示は、むしろ適切であつたというべきである。また、前認定のとおり、被告が治療を継続したにもかかわらず原告の症状が一向に好転しなかつたことを考えると、人的物的な医療設備の充実した病院への転医処置を治療義務の放棄と非難する原告の主張は不可解である。

付言するに、前認定のとおり、転医先の市立札幌病院において原告が緑膿菌に感染していることが発見され、抗生物質の大量投与によつて原告の一命を取り留めたが、それは、同病院の治療努力とともに、被告の同病院への適切な転医処置が一助になつていることに思いを致すべきである。

4 本件診療の相当性について

被告は、前認定のとおり原告を診断した上、治療を施したが、証人小崎秀夫及び同寺山吉彦の各証言、被告本人尋問の結果によれば、被告が行つた診断と治療は、原告の症状の進展に応じて各段階において当時における学術上の見解や臨床上の知見として一般に受容されているところに従い、耳鼻科医師としての裁量の範囲内で行われたものであると認めることができるから、相当性を欠くということはできない。

六以上のとおり、被告が行つた本件診療について何ら過失は存しないから、原告の本訴請求は、その余の点を判断するまでもなく理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(安達敬 門口正人 内藤正之)

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